下駄のあしあと パートU

目次

1.アルバイト
2.生活の智恵
3.桂 文楽 さんの思い出
4.落語家的発想
5.都会と田舎
6.値引きと値切りについて
7.夏祭りーその一
8.夏祭りーそのニ
9.氏子について考える
10.大和町の思い出
11.趣味 その一 魚釣り
12.趣味 そのニ ゴルフ
のこしがき
追記


1.アルバイト

敗戦後流行した言葉のひとつにアルバイトというのがある。
辞書によると、アルバイト=Arbeit(ドイツ語)で本来は労働、仕事、研究論文。日本では学生の学費、レジャー費かせぎ、本業でない仕事の意に使われる事が多い。とある。

最初のアルバイトは新制中学三年生の夏休みである。私は小学六年生のときが敗戦の年であり中学三年というと昭和23年、ようやく戦後の混乱期を脱しかけてきたころである。土浦市東崎町のxx製畳会社で学校へ求人募集があった。

応募したらすぐ決まった。仲間は五、六人だったと思う。乾君や大沢君、それに佐藤敏夫君(トッちゃん)も居たと思う。みんな頭の良い人ばかりだった。なんせ旧いことなので記憶が定かでない。

仕事は出来あがった畳床を市内の畳屋さんへ納品したり自社倉庫へ片付けたりするのです。自宅の大和町から東崎町へチビたコマ下駄を履いて行った覚えがある。ところが納品のときなど車から畳床を下ろすとき監督さんから注意がある。

「「いいかい、畳床というのは角が大事だからね、ブツけたりひきずったりしないように」と言われ中学三年のチビさんには畳床をキチンと持つことは容易ではなかった。だいいち重かった。畳の裏の真中に15センチぐらいのヒモがありそこを掴んで持ち上げるのだがなかなかすんなり持てない。そのうち下駄を脱いで裸足になって運んだ覚えがある。

これではテーマである下駄のあしあとならぬ裸足のあしあとになってしまいそうだがただあの当時本当にモノが無かった。ゴム底の運動靴が仮に有ったとしても法外な闇値でとても庶民には手の届くものではなかった。

今のように靴屋の店頭に運動靴がうずたかく積まれている時代とは雲泥の差である。
結局働いたのは十日ぐらいだったろうか。小さい茶封筒に入ったお給金を戴いた覚えがある。
それをそっくりおふくろに渡した。
おふくろは「ごくろうさん、たいへんだったろう」と言ってくれた。


二度目のバイト先は毎日新聞土浦通信部であった。高校一年の夏休みである。
土浦市匂町にあって桜井茶園のところの十字路から小桜町へ向かってニ、三軒先の路地があって竹垣の回った角の平家だったと思う。隣はたしか津久井商店の倉庫、道路の向かい角はパーマ屋さん、隣は大和田経師屋さんだったと思う。

仕事は留守番と新聞の整理である。家から歩いて十分ぐらいのところで朝八時半からの下駄履き通勤だった。
支局長は小堀さんという方だった。

朝行くとまづ玄関の掃除、次に事務所を綺麗にする。小堀さんは九時過ぎに市役所内の記者クラブと警察署へサツ周りに行く。事件や事故があればそのまま現場へ取材に行く。そして帰ってきて東京本社へ電話を申し込んでおきその間に原稿を書き上げるわけである。とても文才が無いと勤まらない商売である。

たとヘばこんなふうにである。
原稿:八月十日朝 土浦駅前○○旅館に   て食中毒発生 幸い泊り客数名が   軽い下痢症状 原因は・・・・・これを電話送信すると

数字の八鶴亀のツ切手のキ数字の十飛行機のヒ朝日のア桜のサ鶴亀のツ千鳥のチ上野のウラジオのラ鉛筆のエ切手のキマッチのマ鉛筆のエ○○リンゴのリ吉野のヨ(カは何だったか忘れた)オシマイのン日本のニ手紙のテ新聞のシ吉野のヨ車のク千鳥のチ弓矢のユ上野のウ富山のトにダクテン車のクはがきのハ鶴亀のツ世界のセいろはのイ
桜のサいろはのイわらびのワいろはのイ富山のトマッチのマリンゴのリ切手のキ大和のヤ車のク数字のス上野のウ明治のメいろはのイ(カ、ふめい)にダクテン(カ、不明)留守居のルいろはのイ景色のケにダクテンリンゴのリ新聞のシ吉野のヨ上野のウ
景色のケにダクテンオシマイのンいろはのイオシマイのンハガキのハ・・・・・

となるわけです。 

何しろ耳学問なのではっきり覚えていないがたしか「カ」は[為替のカ]だったような気がする。

いつだったか小堀さんの取材先の中川ヒューム管から電話があり撮影用のマグネシウムを三個至急持ってきて欲しいとのこと。すぐに自転車で途中中城町の小島カメラ店で仕入れしてお届けした。ところが小堀さんの第一声はこうだった。

「なあんだ、下駄で来たのかよ」と言われ真っ赤になってしまった。それ以来外出の用事は全く無かった。ショックだった。

でも楽しいこともあった。新聞の整理である。前日の夕刊と当日の朝刊を広げて全部チェックする。三大紙(朝日、毎日、読売)日経、東京日日、サン写真新聞、地元紙(常陽、みやこ)各紙である。

全紙を見て地元情報がスクープされていないか調べる。有ったらすぐ報告する。幸い在勤中一件もなかった。ドサッと配達された沢山の新聞の中から真っ先に東京日日新聞のコラム欄を読む。高田保の「ぶらりヒョウタン」である。

高田保は土浦市大町出身の作家、舞台脚本家であり旧制土中(現土浦一高)の卒業生でもあり先輩なのでより親しみを感じていた。その文章たるや博学博識多芸多才感嘆しきり、そのうえユーモアありちょっぴりペーソスもありなんといっても目先にとらわれない先を見越した温かい眼差しの警世時評でもあった。毎日、毎日、新聞が届くのが楽しみだった。

約五十年後の後日談になりますがニ、三年前、子供の頃からお世話になっている藤井功也先生から「これ、面白いよ」と貸してくれたのが一冊にまとめた「ぶらりひょうたん」の単行本である。

その中にこんな一節がある。

「そのうちわが国も消費税なるものを導入するようになるだろう。ただ私の考えでは消費税というよりはゼイタク税というべきで例えば数百万円以上のいますぐ使わない土地家屋不動産とか高級外車を取得した法人又は個人に数パーセントの課税をすべきであろう云々・・・・・」

今われわれが払っている消費税のことを五十年前に予見していたわけである。
作家の慧眼まさに恐るべしである。

またまた余談になりますがその年(昭和二十四年)の八月は雨が多く各地で水害が発生した。茨城南部の各河川も増水した。

そのときの話である。
小貝川決壊のニュースが入ってきた。竜ヶ崎支局長の高木さんは決壊現場の写真と原稿と着替えの洋服を頭に結わえて裸で小貝川の濁流を泳ぎ切り対岸の藤代町取出町と駆けて電送写真と電話送信を送ったそうである。このことはあとで毎日新聞社より報道賞として表彰されたものである。

今ならファクシミリやパソコンで簡単にすぐに送信できるものをと笑われそうだが当時はこんな時代だった。

アルバイとにまつわる話として最初のバイトはほろ苦いものが残ったし二度目は胸にグサリときたアルバイトだった。

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2.生活の智恵

「おー、スイカンブネガ キタドー」
私が小学四、五年生の頃の話である。

今の505商店街の前は川口川が流れていた。千勝堂パン店の前から八千代橋のほうを見ると浮島から西瓜を積んだ船が入ってくるのが見えた。

そこですぐさま家のほうへ戻って長屋の子供連中に声を掛けるのである。すぐ集まる。長瀬の直ちゃん勇ちゃん長塚の孝ちゃん小沼の光ちゃん山口の朝ちゃん私も含めて五、六人はすぐ集まる。そして西瓜船の荷揚げを見て待つのである。

当時三ツ輪銀行の裏門の前に川口川の船着場があった。コンクリートでできていて三段ぐらいの石段があった。

やがて西瓜を満杯に積んだ船が船着場に寄せられ着いて四、五人の乗組員小父さんたちの手渡しリレーで陸揚げするのである。納め先は土浦のヤッチャバ。その荷揚げの模様を長屋の子供たち数人が岸壁に並んでジッと見ているのである。

するとハチまきをした親方が荷揚げも終わりに近ずいたころ大きな声で「おーい、今日は子供ら何人いんだ?」「そうか、六人か」と言ったかと思うと手渡しの西瓜を「オットトットー」と言いながら手を滑らせて石段の角で割ってしまうのである。

そのバラバラにコワレタ西瓜を「ほーレ、子供ら、食べろや」と言って呉れる。子供たちはわれさきにブッカキ西瓜を貰って食べる。美味かったなあ!あの甘味は今でも忘れられない!。浮島村から船積みされてきたナマアタタカイ西瓜でも美味しかったのだ。

頃合をみてオッサンが「おーい、そこにあるふたつも出っしゃいや」と言うと船からまた手渡しがあってまた「オットトットー」と割って食べさせてくれる。大体三個もみんなで食べれば結構な腹ふさぎになったもんだった。

後年,大人になってあのときの事を思うとあの「オットトットー」はまさに生活の智恵ではなかったかと思う。

ときあたかも戦時中、物資は欠乏を極め特に食べ物はひどかった。そんな時代にわざと落として腹を空かして並んで見ている子供達に西瓜をご馳走してくれるということは弱者が弱者に配慮するというか,いたわり合うというか、とにかく人間らしさに溢れた良き時代だった。

しかしこれだけでこのことが生活の智恵と言えるかどうか。もうひとつ同時期の体験談を記そう。

言葉は物騒だが神立の栗カッパライである。

メムバーは長屋の悪童連五,六人で小学ニ,三年から四,五年生である。みんなちびたこま下駄を履いて大和町から川口町を抜けて木田余街道を行き神立へ着く。

今でこそ木田余街道はきれいにアスファルトで舗装されているが当時は砂利道だったような気がする。すぐ右を常磐線が走りみんなでワイワイガヤガヤ言いながら中には汽車がくると駆け出すものもいた。

神立駅近くはあたり一面栗畑であった。踏み切りを渡って東口の栗畑へ入る。早速落ちているイガ栗を拾いポケットに入れる。ところがもっと欲しいやつがいて持参した木綿の手ぬぐいを地ベタへ敷いて木を揺するのである。

そのころになってその家の主人か管理人が気付き大声で怒鳴る。「コラッ、どこのガキらだー」「そーたことやっと承知しねーどー」と怒鳴るだけ怒鳴って決して追いかけてはこない。その間に木の枝から落ちたイガをできるだけ拾い集めて逃げる−−−これが神立の栗カッパライである。

あとで考えるとこの管理人の怒声が怒声だけで終わっているところに生活の智恵を感じるのである。つまり子供たちの悪行を大目にみて見逃す、ということは当時の世相から推して食べ物に飢えていた子供たち(弱者)に対する思いやりではなかったかという気がするのである。

そのあと子供たちはどうしたかーー帰り道家まで我慢できず途中の街道でイガ栗を剥いて食べるのである。ところが皮も中のシブもうまくとれずそれでもなんとか生栗の甘味にありついて食べたっけ。

生栗はマズイということが判って急いで戦利品(イガ栗)を家へ持ち帰り私の家の裏にあった楢戸(ナラト)の空き地でドンドン焼きをやる。誰かが炭俵のカラをニ、三俵持ってきて燃やしてみんなで丸くなって火にあたるのである。そして燃え切って灰になったところへ生栗とこれまた誰かが持ってきた生サツマイモをブッこむのである。焼き上がった栗とイモをみんなで食べた味はウマカッタ。

以上のことを以ってして生活の智恵といえるかどうか。はお読み頂いた方のご判断にお任せするしかないわけですが因みにそのあと悪童連に誘われたが私は一度も行かなかった。あの小父さんの『コラッ!』と言う怒声が怖かったからである。まことに良き時代であった。

最近テレビでこんなシーンが放映されていた。ビートたけし(北野 武)に某局のアナウンサーがマイクを向けていた。アナウンサー「たけしさん 近頃幼児虐待とか残虐な殺人事件などが多発してますがこのような世相をどうみますか?」たけし「えっ?オイ、アナウンサーさんヨ、あんた大学出てんだろ?大学出てる人がそのぐらいのことがわからねえってんじゃしょうがねえじゃねえか。

それはね,世の中がもっと貧しくなりゃあいいんだよ!一人一人の生活がもっと貧乏になってあの戦争のころに戻ればきっと事件なんか少なくなると思うよ。もっとも今の情報量とは違うだろうけどね」。正に我が意を得たり、である。

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閑話休題

友人の勧めに乗ってパートUを書き出したもののなかなか進まない。進まない訳である。下書きというものが無くいきなりパソコンへ入力してプリントしながらやっているからである。

パートTの時は大学ノートに書いたものをワープロに打って仕上げたが今度はそうはいかない。病気が進行して手で字が書けないのだ。やむなくパソコンに頼らざるを得ない。パソコンの場合書き直しがなかなかできない。それに文書保存の操作ミスで折角入力したものが消えてしまうことがある。そんな時は泣くに泣けない。思い出しながら再入力するため前後の文章が判らなくなったり重複したり『起承転結」がはっきりしなくなってくる。

「起承転結」といえば最近はテレビとすっかり仲良しになり朝は米大リーグ、昼は娯楽番組、ワイドショー、そして夜はナイター中継と一日中テレビ漬けの毎日である。

中でも昼のお笑い番組でタモリの「笑っていいとも」というのを面白くてつい毎日見てしまう。その中で「テレフォン ショッピング」というのがあってそこでは見事に「起承転結」があるなと思うのは私一人の独断と偏見だろうか。

起:司会者が招かれたゲストに贈られた  花輪や花束を披露する。

承:ゲストの体験談やそのときどきの興味ある話を司会者が巧みに引き出しトークする。司会者の博学ぶりに驚く。

転:楽しいトークが終わって司会者がゲストに「ではお友達を・・・」というとそれに答えてリレー式に明日の出演者が決まり「明日来てくれるかなぁ」「いいともー」とやっている

結:今日のゲストは○○さんでした。

なるほどリレー放談形式だからネタ切れは無いしもう二十年以上も続いている長寿番組だそうである。

私はこのような舞台構成も,文章も,結婚式の挨拶も,会社の朝礼での話でも、はたまた人生においてもすべてが「起承転結」じゃないかと思うのである。
因みに自分の人生を振り返ってみると

起:昭和8年11月 この世に生まれる。

承:幼年期,少年期、青年期,そして結  婚、中年期,老年期となる。

転:平成10年6月(満64歳)ALS  に罹る。

結:死

ところが最近読んだ本の中に[人間は誰も「生老病死」である]。とあった。
「起承転結」も「生老病死」も同じじゃないかと思った。 

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3.桂 文楽 さんの思い出

昭和27、8年頃の話である。
今の桂文楽ではなく先代の文楽さんである。本名「並河益義」東京.台東.西黒門町に住んでいた。その表札はあの界隈で一段と光って見えた。それというのも升蔵さん(のちの月の家円鏡,現橘家円蔵)が毎朝向こうっ鉢巻で着物の裾をからげて玄関の硝子戸の拭き掃除をやっていてそのとき表札も磨いていたものと思われる。その文楽さん宅は私が勤めていた鈴屋(自転車部品卸問屋)の一軒おいてお隣だった。(お隣は藤田マーク)。

同じ町内同じ班ということでご近所付き合いよろしくとくに奥さん同士仲が良かった。そんな或る日叔父(社長)が「おうい宮本、ちょっと今から広小路センターへパチンコやりにいこうや」と言われ叔母と私と三人ででかけた。

そのセンターは御なり道に面しており末広町から上野広小路へ向かって右側の上野松坂屋の手前の東海銀行上野支店の前にあった。黒門町交番と小公園が隣接している三角地帯で家から歩いてニ,三分のところである。

着いてすぐに玉売り場へ行ったところ向こうから文楽さんがいつものテカテカした頭にツヤのある顔でニコニコ笑顔で近付いてきたかと思うと私達に「イヤーこれはこれはご同道で!」と言われた。

それを聞いて私はハッとした。なるほど!これが落語家のプロの言葉遣いかと。同道なんぞという言葉は子供の頃読んだ講談本に若い武士が「では同道致そう」とか「拙者と同道仕ろう」ぐらいしか知らなかった。それが落語家特有のヨイショというわけではないがとにかくお客様を大事にする気持ちが体全体からその言葉によって伝わってきた。

もし私の場合同じように玉売り場で知人に会ったら何と言っただろうか。せいぜい「いやー、入んねー、入んねー、今日は出ねえなあ、頭へきちゃうよ」ぐらいのセリフだろうと思う。当時のパチンコ台は今のようなギャンブル性の高いものでなくオール10かオール15で左手で掴んだ玉を1個1個玉入り口から入れて右手ではじくのである。なんのことはない。指の運動である。景品は煙草。古き良き時代のパチンコ談義である。

その文楽さんが従兄弟(鈴屋の長男,行正さん)の結婚式に出席されたことである。上野の精養軒で豪華な披露宴があり、業界(自転車部品卸商)トップの多数並み居るなかで媒酌人の柴原先生が「今日は桂文楽さんがお見えになっておりますのでぜひ一席を...」と懇望したところ立ち上がって一席噺しはじめた。たしか演題は「松山鏡」だったと思う。昭和の落語界で志ん生か文楽かとニ大名人と並び称された人が目の前で演じられていることに私は鳥肌が立った。
もうひとつ,これは鈴屋の次男坊尚正さんの話である。3,4年前東京.西荻窪の自宅にお邪魔したときに伺った。

頃は昭和20年敗戦の色濃く東京空襲が連日報じられるとき尚正さんは旧制中学1年生だった。お隣の藤田マークの中庭に防空壕が有って両隣の鈴屋さんと文楽さんの世帯がお世話になっていた。或る晩発令されていた空襲警戒警報も解除されて中のみんながそれぞれの家に戻ったあと防空壕に残ったのは文楽さんと尚正さんの二人だけだったそうな。

そこで文楽さん曰く「えー、鈴屋の坊ちゃん、そー,尚正さん、これからここで私が一席やりますから付き合ってくださいな」と言って噺をはじめたそうです。中学1年の尚正さんにはむづかしくて判らないところもあったようだが今でも思い出すのは噺の中で若旦那が甘納豆を食べるところが真に迫っていて凄かったと言っていた。真っ暗な防空壕の中でサシで文楽さんの落語を聞いた体験をした人なんておそらく尚正さんぐらいじゃないかと思う。流石のアンツルさん(安藤鶴夫先生)もこんな体験は無いと思う。
私は尚正さんが羨ましい。

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4.落語家的発想

桂文楽さんの話が出たので古今亭志ん生さんについてちょっと触れる。
志ん生さんは無類の酒好きだったと聞く。その志ん生さんが病気で倒れる前の話である。ファンから頂いたものか家で買ったものか定かではないがお酒(一升瓶)を居間の戸棚にしまっておいてチビチビ茶碗酒を楽しんでいた。

ところがお酒の減り方が少し早い気がしたのでマジックインキでちょっと印をしといたそうである。あくる日見るとまた減っているので「オーイ、誰かまた酒飲んだな、飲んでも良いからちゃんと断って飲みなよ」と言った。

そのとき名乗り出た者は居なかったがあとで内弟子の一人が「師匠、どうしてわかったんです?」と聞いたところ、「バカヤロー、瓶を見てそのくらいのことが気がつかねえのかよー、オレはなここんとこどうも減りが早いんでおかしいなと思って瓶に印をしといたんだ」「えっ?どこにもなんにもありませんが」「瓶を逆さにしてごらん、そこに線が書いてあるだろ、それだよ」と言われて弟子がそのとうりやってみるとなるほどマジックで薄く線があった。これには弟子たち一同「ウーン、まいったァ」。

この発想は落語家的で面白いと思う。
もうひとつ立川談志の場合。
談志が真打になって間もなくのころである。弟子を五、六人連れて新宿のデパートへ買い物に行ったときのことである。買い物済んでヤレヤレと全員エレベーターへ乗ったところ談志が何思ったか「最上階へお願いします。」と言ったのでみんな不審がっているうち最上階へ着いた。着くや否や「さあ、みんな降りて、降りて、1階で待ってろよ、俺と競争だ。」と言ってみんな押し出された。

弟子達は争って階段を駆け下りた。と、そのうちの一人が戻ってきてエレベーターガールの制止も聞かず操作盤のボタンを全部押して各階停止のようにして出て行った。乗っていたお客さんはビックリするやら呆気にとられてただ見ているだけだった。そして各階に止まりやがて1階に着くと弟子達が「師匠、お早いお着きで」と両手を擦って待っている。

談志はその一人を誉めて他の弟子達を酷評したそうである。
その一人とは誰あろう。現在NHKテレビためしてガッテンの司会者として活躍中の志の輔さんだそうである。
この落語家的発想の面白さと同時に落語家特有の笑いの本質があるように思えてならないのである。

志ん生の笑いは内から込み上げてくる笑いだし談志のは堅い笑いというか作りすぎる笑いという感じがしてこれは二人の芸風の違いによるものだろうが私は志ん生に軍配を上げる。

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5.都会と田舎


昭和36年頃の話である。
街には植木等のスーダラ節が流れていた。私が藤井先生のお母さんの家(東京・国電大塚駅前)に居候していたときである。そこでは小間物店がメインで副業に瀬戸物屋もやっていた。その瀬戸物屋でお手伝いをしていたときの失敗談である。大塚駅前の商店街というのは一間あるかないかの狭い道路に演芸場ありおでん屋あり洋品屋あり魚屋ありなんでもありの密集したところである。近くに芸者街があった。或る日曜日の朝お店を開けるなり二人の若い芸者さんがとびこんできた。

入ってくるなりいきなり
芸者「お兄さん、そこのおてもと、五つほどちょうだい」
そう言われて私はドギマギした。おてもとなるものを知らなかったからである。

私「えっ?ハイ、何でしょうか?」
狼狽している私の心を見透かすように
芸者「なにイ、このお兄さん、おてもと知らないんじゃないの、ホラ、そこの割箸ヨ!五袋ちょうだい!」

よく見ると割箸の袋の上に[御手茂と]と崩し字で書いてあるではないか!そうか!東京じゃ割箸のことをおてもとと言うのか!あア知らなんだ!
芸者「しょうがないねえ、瀬戸物屋のお兄さんがおてもと知らないなんて、ひょっとしたらあんたカッペちゃん?」と言われ顔が真っ赤になった。

私「ハイッ!スイマセン!」と言って包装して渡すと
芸者「ハイ、半パまけといてよ!」と言ったかと思うとスタスタ行ってしまった。

次の日曜日の朝、また二人が来た。
芸者「そこの棚のむらさき入れ三つちょうだい!」
私「ハイ、このお醤油入れですね」
芸者「アーラ、よく知っていたこと!」私「そのくらいわかりますよ!生まれも育ちも茨城・土浦ですから」。と言って私はむらさきについて知っていることを喋り始めた。

私「そもそもむらさきという言葉は江戸時代の後半、江戸の職人たちの隠語だったんだね。それが明治、大正、昭和と時が経つにつれ一般化され普通の人も使うようになったというわけさ。

なんで土浦かというと市内を流れる桜川の上流に虫掛町があってそこの柴沼醤油で醸造された醤油を水路、陸路を通って千葉県関宿町を経由して江戸川から江戸の街へ運ばれ大いに江戸の人たちに美味しい醤油ともてはやされたんだって。それが筑波山の麓からくるというので筑波山は特に夕景に紫色に映えるところからむらさきといわれるようになったんだってさ。ウソだと思うんなら土浦へ行ってみな。「紫峰」というブランドで高級醤油で売っているから。今でこそ野田のキッコーマン、銚子のヤマサ醤油に負けちゃっているけど昔は土浦の柴沼醤油はかなり有名だったらしいよ。近頃は寿司屋へ行くとお客がお店の人に”スイマセン!むらさきちょうだい!”なんてやってるけどね」

芸者「ヘェー、よく知ってるわねぇ、ところでいくらにしてくれんのさぁ」
私「そうですねぇ、三つのところ五つ買ってもらうんだから丁度千円でいいですょ。百円おまけしときます」。と言うと芸者「アッ、ソー、ありがと」。
といってスタスタ行ってしまった。

あとで私は自分の小遣いから百円を売上げ箱に入れ何食わぬ顔をしていた。すると夕方ご主人がパチンコでとってきたょ、と言って私にピースを2個呉れた。当時1個40円だったから2個で80円か。ご主人がパチンコをやらないのは知っていた。おそらく私と芸者のやりとりを狭い商店街ゆえ前のおでん屋さんからでも聞いたのかもしれない。

とにかく田舎もんが都会で辛い思いをした一つの話であると同時に大塚というところは下町風情のある人情味溢れる良い街だった。

私の学んだ土浦小学校の校歌に次のような一節がある。作詞はあの有名な野口雨情である。


明け行く空に ほのぼのと
紫におう筑波山 紅深くうららかに

昭和十年(1935年)八月
作詞 野口雨情

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6.値引きについて

昭和18.19年頃の話である。
私は小学4.5年生である。
私たち一家はまわりの土浦の親戚と東京の叔父叔母みなさんのご援助によって生きてきた。そのうちの一人が本郷の叔父さんである。叔父(宮本文次郎)さんは文京.本郷.湯島新花町で注射筒製造業を営んでおり使用人も十人ぐらい使ってかなり手広くやっていた。そこへ私は夏休み,冬休みというと行ってお世話になっていた。間には渋谷の叔母さんの家に行ってお世話になった。

そんな或る日叔父が私に「おい,周や、今から浅草へズボン買いに行くんだけど一緒に行こうや」。と言われてくっついていつた。末広町から地下鉄に乗り田原町で降り階段を上がって路面へ出るとやきそば屋が並んでおり、その匂いを嗅ぎながら六区興行街を抜けて観音様の手前にある古着屋がいっぱい立ち並んでいるところへ行った。

ゆっくりとひとまわりすると「あそことあそこのお店が良いかな」と呟いたかと思うとAの店へ入って行った。そしてそこの主人となにやら笑いながら「まけろ」「まかんない」とやっていた。 叔父は土浦出身であるがその弁舌は江戸っ子以上の江戸弁で聞いていて心地よかった。

結局そこの店では買わずBの店へ行った。Bの店でも楽しそうに値引談義をやっている。最後に店の主人の「まいったなぁ、旦那には、ようしその値段で売りましょう」。ということで終わった。

そして帰り道浅草寺横道りの商店街で私に革ベルトを買ってくれ、次に足袋屋へ寄って叔父の足袋を一足買って帰ってきた。勿論この二つの店では値引の話は無く正札どうり買った。帰り道叔父は私にこう言った。「イヤァ、今日は面白かったなぁ、あすこのオヤジと丁々発止やりあってマケテもらったもんなぁ。ただマケテもらってそのままじゃ駄目なんだよ。そのマケテもらった金額で何かを買っちゃうんだな。そうすると本当に買い物が楽しいし心が豊かになるよ。もっともデパートじゃこんなことはできないけどね」。

後年,私は或るデパートのキャッチフレーズに「お買い物上手はご家庭の幸福」というのがあったが、なるほどなと思った。叔父はのちに山形へ移り住み病を得て亡くなられ今は小金井の墓地に眠っているが私は今でも心の中で叔父を尊敬している。

同じ値引でもこんな話がある。
私が鈴屋(自転車部品卸問屋)の番頭をしていたときである。高校を出て2,3年後の頃である。

上野のアメ横の脇,昭和通りに面した角店にK(小湊)自転車製作所というのがあってそこから報国チェンの注文を受け1箱納品して支払日に集金に行った。
ところが請求金額¥10,500.円に対し  支払い金額¥9,500.円の小切手である。

当然差額について質問したところ既にお宅に電話して了解済みであるとのことでそのまま貰って帰社した。すぐに報告するとそのような電話の事実は無いという。それじゃまるっきり詐欺じゃないか!この時代こういう手合いは結構ありましたね。「利は元に有り」とばかり値切るわけです。

しかしモノには仕入れ値=原価というものがある。原価を割ってまで売る必要がどこにあるだろうか。その時の体験では卸問屋が在庫商品を換金化するようになっては先が短いなということと、K社のように値切る店も長いことはないな、と思ったら案の定そのとうりになった。結局商売というものは或る程度仕入先に儲けさせ,自分もそれを基準にしてコストを上乗せして利潤を得やっていく、つまり共存共栄であるべきだというのが私の結論である。

値引については似たような話がある。
私が定年後T建材に勤めていたときの話である。土浦市内にO工務店というのがある。そこは毎月決まって支払日に集金に行くと必ず値切る。一緒に集金に来ていたプロパンガス屋さんも値切られていた。これは「値切り病」ともいうべき病気の一種だと思った。

私はそのお店に「ネギリヤ工務店」という綽名を奉った。商売をしていれば不具合が有った場合,値引されるのは当然である。それには説明が必要であろう。それが無いのである。一方的に引いてくる。質問しても「会社へ帰れば判るよ」と素っ気ない。しまいには「そのくらいは集金値引だよ」ととりつくシマもない。いくら小切手支払いといってもお得意さんと喧嘩するわけにはいかない。私の関係先でたまにあったのはI林業とY建設があった。

そのような会社が仮に財を成して高層ビルを建てたとしたらそれは砂上の楼閣といってすぐに潰れるであろう。
見積もりの時点での値引交渉なら許せるが成約してすべてが終了してからの値引だから許せない。

値切り屋さん 末は乞食か ホームレス

値引きとは売主が買主に対して行うものでそこには売りと買いの間で丁々発止のやりとりと駆け引きがあって例えば買主が「買う気があるから高いってんだよ」と言うと売主が「オッ、ダンナ面白いこと言うじゃねえか、ようし、***円に負けとくよ」ってんで商談成立。商売の極意はこんなところにあるんじゃないかと思う。

その反対に値切りというのは買主が売主に対して一方的に独断と偏見で値切るもので、それはそれは陰湿でとても共存共栄とは程遠い。これをやっているうちは企業は伸びない。

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7.夏祭りーその1

敗戦後数年して或るご夫婦が東京中央線沿線の阿佐が谷駅から少し離れた閑静な住宅地に引っ越してきた。ご主人の勤務先は丸の内東京駅のまん前で電車通勤である。

或る年の夏,町内の町会長さんが会計係さんを伴って夏祭りの寄付をお願いにやってきた。あいにくと来客中だったので奥さんが「すみません。あとすこしかかりそうですので、またいらしってください」というのでやむなく町会長さんらはその辺をひとまわりして再度訪れると来客が帰ったあとで応接間へ通された。

お互いに時候の挨拶のあと町会長が用件を切り出すとご主人が「判りました。ところでいくら集まりましたか?」との問に会計係さんが「ハイ、全部で***円です」。と答えるとご主人が「おーい、かあさんや、***円持ってきて」と言って奥さんが持ってきたお金をそっくり町会長さんに「これでお願いします」。と差出した。

町会長はビックリして「こんなに宜しいんですか?」と聞くと「ええ、町内の方にはいつもお世話になってますので、どうぞ」。と言ったきり。町会長さんらは何度も謝意を表してその家を辞した。帰りがけにご主人が「毎年ウチは一番最後にお願いします」と言われた。

その年の夏以降、この町内では夏の祭礼予算が町内寄付金額の2倍を計上することができ大いに助かったということである。しかも大事なことは「金は出すけど口は出さない」ということだった。これはなかなかできることではない。

このことが評判になってご主人の勤務先や役職も町内の人達の知るところとなり不動産会社の社長さんということから駅前再開発の話や商店のビル建設の話など「類は友を呼ぶ」というのかいろんな話がいろんな人から持ち込まれ大忙しだったそうである。

町内会の中にはねたんで寄付した以上に儲かったろうなどと悪口を言うものもいたがそんなことを言う奴に限って寄付は1銭もしないのが相場である。そんなことよりも私は地方から東京へ出てきた人が都会の人と上手に付き合う秘密が隠されているような気がしてならないのである。大事なことは「金は出すけど口は出さない」じゃないだろうか。

ご主人とは誰あろう。三井不動産の社長・会長を勤めた江戸英雄さんである。
因みに江戸さんは茨城・竜ヶ崎在の出身だそうである。奥さんの生国は知らない。

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8.夏祭り―その2


全く今の世の中は便利になったもんだと思う。居ながらにしてテレビで全国のお祭りが見られる。北海道のソーラン祭り,青森のねぶた祭り,秋田の竿灯祭り,山形の花笠祭り,仙台の七夕祭り,京都の祇園祭り、博多のドンタク祭りと枚挙にいとまがない。

これは私の茨城・土浦・菅谷町に居住したときに体験した夏の祭礼の体験談である。
菅谷町四班には約十二年お世話になった。その間二度祭礼の当番が回ってきた。一度目は会計係を仰せつかった。山車を車に載せたメイン車のうしろに会計係三名が乗りこんだ軽自動車で町内を一周するのである。

そして自分の班は勿論他の班1班から6班まで3日間かけて全戸まわるのである。大体150軒ぐらいである。恒例の夏祭りということで主催者側は順調に寄付金が集まってくるように思いがちであるが実行する側からすると言葉は悪いが合法的ユスリ,タカリ的一面があるのも否めない事実である。

山車からの獅子舞や車上の菅谷舞保存会メンバーによる舞を奉納するとたいがい一軒の家で最低千円をのし袋へ入れて差出される。それを後車の会計係が処理する。頂いた寄付が千円の場合―三千円,二千円の場合―五千円,三千円の場合―一万円,一万円の場合―三万円として処理する。

なるほどこれなら景気が良い。長年の生活の智恵からだろうか。頂いたお金の約3倍の金額を車の上で半紙に墨痕鮮やかにスラスラと書く。それが会計係の仕事である。○○○○殿金○千円也と半紙に書いたものをビラ下のようにノリで貼り付け順番に車の周りに書きだしていく。

ところが問題が起きてしまった。頂いた寄付の斎藤正オさんのオが男だったか夫のオだったかわからないという。のし袋を見ると斎藤としか書いてない。たしかマーチャンは男のオだったっぺということになって半紙へ斎藤正男殿,金三千円也と書いて貼り出したところ早速ご近所の人からクレームがついた。正オさんのオは英雄の雄だど、とご注進が届いた。すぐに直した。しかしみんなが如何にわれわれのことを注視してるかわかった。一巡して夕方公民館へ戻ると町の古老達が待っていてその日の集金結果を報告する。例のビラ下は公民館室内の鴨居のところにズラリと並べて貼り出されそれを見ながらみんなで雑談に耽りながらイッパイやるのである。

これが私の田舎町の田舎の夏祭りの体験談である。

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9.氏子について

土浦・菅谷町の入り口に菅谷神社がある。私は或る年その神社の氏子に選ばれた。いや、選ばれたというよりやらされたというのが当っている。菅谷町四班にお世話になって約十年経ったころのその年の新年会の席上で選ばれた。班の内規により年齢順ということで承諾せざるをえなかった。各班の氏子が揃ったところで前任者からの引継ぎがあった。簡単なもので公式の会合に出席する場合は背広ネクタイ着用のこと。ただそれだけである。とにかく選ばれたからにはやらにゃぁしゃあないと精を出した。お札配りや神社の清掃など休日を半日返上しての活躍だった。四班の世帯数は約30である。その一軒一軒回ってお札を届け集金して回るのである。

或る日ご近所のNさん宅へお札を配りに行くと帰り際に次のようなことを言われた。「宮本さん、いくつ?この班にはあんたより年上の人が三人居るんだぜ。あんたのあとをやる人は大変だっぺ」。と言うのです。これには驚いた。それじゃあの新年会の時の話はなんだったのか。ひとをこけにしやがって!そんならそうとちゃんと言えば良いじゃないか!私は新年会の席上指名されたとき60歳を過ぎており年齢順と言われああ自分もそんな歳になったかと役員さんの言葉を信じて疑わなかった。

あとで聞いた話だが前任のNさんはたびたびKさん宅を訪れ要請したそうである。ところが断られたためになり手がないので私にお鉢が回ってきたわけだ。ということは役員ぐるみ承知の上でのことと判ったので激しい怒りを覚えた。氏子の任期は三年、一度選任されると辞められないというが意地でも辞めてやろうと思った。

そこで秋の収穫祭の打ち合わせの席上皆さんの前で辞意を言った。すると年齢順対象の三人がそれぞれ話し出した。トップをきって区長のNさんが「私は区長だから政教分離の建前から氏子にはなれない」。Kさんは「家督を倅に譲ったので私はならなくてよい」。

もう一人のNさんは「もうこれで三人が判ったんだからよかっぺはあ」。と言うだけで誰の口からも悪かった,済まなかったと言う言葉は無かった。それどころか足の悪いNさんは「いっぺん引き受けた以上三年は辞めらんねど」。と言う。

ハハァン、それで読めた。

翌年の夏は四班が祭礼の当番の年で山車を新調することから各戸に寄付をお願いすることになる。それがいやで何も知らない私に推しつけたに違いない。うまくいけばそれで良いが、まずくいったらそれみたことかということになる。班の古老たちはそれを知っていた。とにかくズルイ。

もし私に落ち度があろうもんなら笑いもんにする魂胆がありありとみえた。その証拠にいつのまにか私が氏子会の副会長ということになっている。このことで会長のKさんも会計のAさんも誰も一言も無かった。任期一年目の夏の祭礼のとき山車と神輿が公民館へ戻ってきてその日の行事を終えようとするのに氏子会会長のKさんが居ない。
聞くとKさんは泥酔して自宅で休んでいるという。行事の儀式は終わりにちかずいている。氏子達はひとかたまりになってただオロオロしていた。そこへ古老のNさんから大きな声でみんなのまえで「ほ―れ,氏子のテーラ、ナニヤッテンダ!」と罵声が飛んだ。

仕方なく私が押し出されるように出されて神主の真似をして二礼ニ拍手一礼をやってことなきを得た。それが終わると公民館内で祭礼関係者全員で夕食をとる。お酒ビールの酒盛りである。宴半ばにして氏子から明日の行動予定の説明がある。それも会長不在のためやらされた。その地方の方言で言えという。全くの漫画だった。

言ってる本人が判らないのに聞いてるほうは判るというのだから不思議だった。そのとき思ったことはサラリーマン氏子の限界を悟った。そうかといってすぐ辞めるわけにはいかない。

その年の収穫際を終え年末年始の菅谷神社への元朝参りの参拝客のお酒の振る舞いをやって一月辞任届を提出した。受理されて後任はN電機のNさんだった。新年会の席上決まった。

Nさんは年齢順では私の次である。またしても私より年上の例の三人は氏子にならなかった。それどころかその中の一人Nさんは私にその席上で「おーい,いったい俺がなんつったんだよ!」。とからんできた。仕方なく私も「ヨーシ!それじゃやりましょうか」と言うと私の前の家のNさんが仲裁に入りそれ以上コトは大きくならなかった。

あぁこれじゃいくら話しても無理だし無駄だと思った。しかしやることだけはやらなくちゃと山車の新規製作の段取りと後任も決まったことだし最終的に神主の了承を得て辞めた。ところがその年の夏の祭礼の人事では見事にシッペ返しを食った。完全な村八分というかイジメにあった。前回の会計係から外されて山車の通路の小枝払いである。これがなかなかの重労働である。見た目は車に乗って楽そうだが実際は新品の山車を傷つけまいと冶具で振り払い非常に疲れた三日間だった。

イジメだなと体感したのは二日目の夕刻である。四班の祭礼担当Mさんにお断りして1−2時間会社にどうしても用があるからと脱け出した。以前からT建材の社長が私の体調を案じて高血圧の治療にと土浦駅東口のある診療所で受診と治療を受けさせて頂いた。その間約一時間半,すぐに戻って祭礼の列に参加した。ところが私の不在中Mさんは私をボロクソに言ってたそうである。ここでもサラリーマン氏子の悲哀を感じた。農業専門の人は何日休んでもそれほど影響は無いだろうがサラリーマンにとってウィークデーの三連休は痛い。これからは土・日を含めた三日間であって欲しいと思う。

氏子は神の子であるという。そこで私の体験から氏子について私見を述べさせて頂くならば今のような選任方法では駄目で私は氏子は永代氏子であるべきであると思う。

しかもそれは子供の頃からその土地に育ち長じて社会的に出世をしていわば功成り名遂げた人が定年後地域社会に恩返しの意味をもってお返しをするのが本当だろうと思う。

話しは少し違うがあの松下電器の故松下幸之助がJR大阪駅前に私財をなげうって歩道橋を寄付したことはあまりにも有名な話しである。

その根底にあるのは恩返しの精神であろう。四班にも永代氏子にふさわしい人が居た。ご近所のKさんである。Kさんは市内の小学校長を最後に定年で勇退され自宅におられた。ところがこの人がやらない。

理由は家督を倅に譲ったからなんぞと寝言を言ってる。いやなお札配りと集金は倅にやってもらって自分は行事にだけ出席すれば良いのである。

第二案としては前区長のNさんがゃれば良い。政教分離だからやれないなんて言ってる場合ではない。現に土浦市内では八坂神社の要請を受けて各町の区長さんが氏子をやってるじゃないですか。どうしてもKさんが引き受けなかったらNさんが人の嫌がる仕事を買ってでもするということが必要なんじゃないかと思う。その土地で生まれ育って功績のあった人が六十歳を過ぎた頃に自薦他薦で決めれば良い。

私は氏子に選ばれたが任期中途で辞めたため思わぬ町内の人の反発を買い陰湿なイジメにあった。私宅で駐車場の雨漏りがひどくなりご近所のH工務店に補修を依頼したところ半年経っても一向にやってくれずあぁこれがそのお返しかとようやく判って友人のY工務店に頼んで処置をした。思えばH工務店さんは私を氏子に推薦した当の班長さんだったのだから無理もない。同班の人の手前出来なかったんだろうと思う。

ことほどさように田舎の暮らしは小さいことにこだわって生きてゆくもののようである。こうした雰囲気を察したのか子供達に転居を勧められた。熟慮の末決断した。この町を出て行こうと。そして今の我孫子市・公団住宅に移り住んだ。約半年空家にしといたあと下水道の完備を機に兄夫婦に住んでもらうことにした。私の苦い体験から兄夫婦には班の役職にはつかせてくれるなと将来の区長候補の一人T・N氏に後事を託して辞した。

これは農業を中心とした集落に家を求めたサラリーマンの悪戦苦闘の物語である。

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10.大和町の思い出

私は昭和8年に土浦・大和町に生まれ高校卒業まで過ごしたところでありさまざまな思い出がある。

子供の頃の思い出はなんといっても古河屋のおばちゃん(藤井先生の祖母)にお世話になったことである。

おばちゃんチはウチの斜め前で駄菓子やをやっていた。そこへ行って前借をしてお菓子を買って食べる。そして夕方おふくろが昼間働いて得たお給金の中から精算して払ってくれるのである。おふくろは昼間旦那場(山口薬局,鶴田乾物店,大谷金物屋とか)へ行って一日働いて帰ってくる。又は中村屋のお団子の行商とか鈴木左官の手伝いをしてお金を貰って帰ってくる。帰ると家へ入らずに古河屋へ寄って精算を先にするそうである。そのとき私に「ナンとナニをイクラ買ったの?」と聞かれて「ウン、○○と○○をイクツ貰ったよ」と言う。それはいつも当っていたそうである。おばちゃんは「この子は正直だから」といつも言ってたそうである。このことを後年、おふくろは得意げに私に話してくれた。

もうひとつお世話になったことで忘れられないのは古河屋のおばちゃんの[お授け]である。

おばちゃんの家には何の神様を祭ってあるのか知らないが大きな祭壇があって良く手を合わせて拝んでいた。私は子供の頃から頭痛持ちでよく学校を休んだ。そんなときおふくろは私の手をとって斜め前の家のおばちゃんのところへ連れて行き「お授け」をしてもらうのである。

私は正座させられおばちゃんが後ろへ立って患部(頭)を撫でる。すると不思議なことに頭が軽くなり直ったような気がしてくる。そんなことがたびたびあった。つまり医者にかかるお金が無く神様たのみのおばちゃんたのみの生活だったわけである。

長屋の子供にとって如何に医者との関りが無かったか当時の生活困窮ぶりが偲ばれる。こうしてご近所の方のご好意によって私たち一家は生きてくることができた。子供達の湯銭(風呂代)だけでも大変だろうとよく長塚の叔母さんから「お風呂空いたから入んなよ」と言われてよくもらったもんだ。

そうかと思うと千勝堂の叔母さんからも「武ちゃんの母ちゃん、子供ら風呂入れちゃいなよ」と風呂場から声がかかる。千勝堂の風呂場とウチの勝手口がすぐそばにあったので裏口から静かに入って「お風呂頂きます。」あったまって出るとき「ありがとうございました。」と言って出てくる。有り難かった。

そのほか親戚では市内・田宿町・鈴木左官の叔父さんにはひとかたならぬお世話になった。お正月など大和町から田宿町へ悪童連が六、七人押し掛けて行って双六やゲームで遊び帰りにミカンやお菓子を貰って帰ってくるのである。

普段の日は行くと必ず「メシ食べていきな」「風呂入っていきな」と言われご馳走になり帰りに小遣いを貰って帰ってくる。全く世話になったもんだ。世話になったといえば東京・本郷の叔父さんと渋谷の叔母さんである。本郷の家は私がまだ学校へあがらない昭和13年の土浦大水害のとき東京へ行きお世話になった。

東京へ行くのに友部から小山へ出て行ったがなんで下り列車へ乗るのか判らなかった。ただ東京へ行けることが楽しかった。その後小学校へあがってからは春休み、夏休みのたんびに本郷へ行きお世話になった。

福次郎兄がそこで働いていたこともあってちょくちょく行った。信じられないかもしれないが私は小学四、五年生のころから一人で東京へ行ったもんである。行くと休みの日には浅草六区へ映画や芝居、両国国技館へ相撲、後楽園球場へ野球、時には千葉へ潮干狩りといろんなところへ連れていってもらった。

中でも思い出深いのは大相撲である。戦時中どういうわけか両国駅へ朝一番電車で降りると相撲協会の人がいて引率してくれて前の晩から徹夜して並んでいる人よりも優先して入館できるのである。そのため本郷の家を暗いうちに起きて聖橋を渡って御茶ノ水駅から乗車する。まさにスモウキチである。

入館すると四階の大衆席で見る。そこからではお相撲さんが小さくしか見えない。そこで勝手に出歩いて三階、ニ階と行ってみる。判ったことは二階の正面席の一番前が良い席だということが判った。ようし、いまぁに大人になったらこの席から見てやるぞ、と思ったがついぞ果たせなかった。当時たしか幕下だったと思うがシコ名杉村(のちの横綱千代の山)が猛烈な突っ張りで全勝していたのを実際にまのあたりにして凄いなあと妙に記憶している。戦後蔵前国技館の一階桟敷席でおふくろと福次郎兄と利子と私四人で見たのがせめてもの親孝行兄への恩返しだったかもしれない。

あの頃もうひとつ忘れられない思い出は渋谷の叔母さんにお世話になったことである。私ひとりまたは私と昭三郎兄とよく渋谷へ行った。行くと叔母さんは東京の名所旧跡を案内してくれた。乃木神社、東郷神社、靖国神社、泉岳寺、有栖川公園、明治神宮プール、時には横浜公園、夜は渋谷の道玄坂へ連れて行ってもらい欲しいものを買ってもらった。そんな叔母さんが亡くなられたあと聞いた話であるが叔母さんはわれわれが行ったときはあとで質屋通いをしていたそうな。そんな話しをあとで聞いて胸が痛んだ。

自分がこんなに叔父さん叔母さんにお世話になったのに自分は甥っ子姪っ子にそれだけのことをしてあげただろうか。答えはノーである。何故か?ひとつには時代の変化と共に経済状態が良くなり人に頼るという風潮が希薄になってきたということ、もうひとつは世の中が良くなって良い意味での個人主義が進みいわゆる貧乏暮らしが無くなってきたからだと思う。以上が子供の頃から小学生までの大和町での思い出である。

中学生時代は敗戦後の三年間であり食べるものも着るものも全く貧困の時代だった。そんな貧しい時代だったが親戚の叔父さんや叔母さんのご援助、ご近所の人達のご好意、知人のお助けによって育つことができた。そしておふくろは今でいうボランティア精神に富んだ人だった。家にはバリカンと剃刀があり床屋銭を倹約するためにあった。私は小・中・高とおふくろにいつも坊主刈りに刈ってもらっていた。私が終わると近所の子供達が刈ってもらう。もちろん無償であり虎刈りになることもなく顔そりも上手だったので親達には喜ばれた。

家の斜め前の山口さんチの博雅君と博行君は常連だった。その博行君が94歳で天寿を全うしたおふくろの葬儀に参列してくれた。彼のお母さんも一緒だった。彼のお母さん曰く「ウチの子供たちはしっかり周ちゃんバッパにお世話になったんだから・・・バッパのお葬式と聞いてなにはともあれ駆けつけました」。と言われた。

脇にいた博行君が私に名刺をくれた。それによると茨城県でも有数の商事会社の鹿島営業所の所長さんだった。あの大和町の家で坊主刈りしてもらった子が出世してこうしてぉふくろの葬儀に来てくれるとは、おふくろよ以って瞑すべし!人の価棺を覆って定まる、という言葉があるが正におふくろの人徳を慕っての多数の人の参列だった。

大和町時代というとあの丸い椅子に座らされ首に白い布を巻きつけられて頭を刈られた光景が蘇ってくる。この「パートU」においてもどうしてもおふくろのことを敬慕の念と共に書いてしまうがもうひとつ大和町の思い出で忘れられないことがある。

それはすでに亡くなった私のすぐ上の兄、昭三郎兄のことである。私が高校生のときである。昔の土浦駅の改札口を出て真直ぐ行くと右側に大野呉服店(現・ダイコクヤ駅前店)と深谷理髪店(現・○○証券)の間に一人半ぐらい通れる細い路地があってその路地へ入ってすぐ左に深谷さんの玄関がありご主人が出てきて私に声をかけた。

「宮本さん!あんたの兄さん上智大学行ってるんだってね、たいしたもんだ、この班で息子さんが大学行ってるウチってないだろう、おそらく大和町でもいないんじゃないかな、待てよ、土浦中でもあんたの兄さん一人かもしんないよ、早稲田や慶応は知っているけどね、いずれにしてもたいしたもんだ、この班の誇りだよ、兄さんに頑張るように言ってね」。と言われた。嬉しかった。

私より四歳年上の兄(昭和四年生まれ)は戦時中、東京逓信講習所に入り、戦後東京中央電報局に配属された。

そして昼間は中電に勤めながら夜は上野高校夜間部三年、四年は神田の正則学園高校夜間部を苦学して卒業、高卒資格取得、そして上智大学文学部受験、合格。昼は大学夜は中電勤務に切り替え下宿も市ヶ谷駅近くに借りた。

何回か行ったことがある。市ヶ谷駅を出て左へ曲がり橋を渡って電車通りを越えると急な坂があり昇りきった右側に住んでいた。たしか四畳半で同郷の綿引孝夫さんと弟の稔さんとの三人で暮らしていた。お金もモノも無く生活は容易でなかったと思う。半年ぐらい続いたろうか。体をこわして土浦へ帰ってきた。

すぐに土浦・国立霞ヶ浦病院で診察を受けたところ「擬似結核」ということで入院となった。そのうち手術となり胸部切開したが悪いところはなかったということで退院となった。その間のおふくろの献身的介護ぶりは今でも私の目に焼付いている。こうして兄は大学へ進学したものの体とお金の面で続かずギブアップし中途退学をせざるをえなかった。

口惜しかったろうと思う。そのままいって卒業していればおそらく一流上場企業の課長か部長になっていただろうと思う。しかしそのご紆余曲折はあったが最終的には日本一のマンモス企業、三菱重工業へ就職したのだからたいしたものである。

もうかれこれ五十年ぐらい前のことになるだろうか、或る日の夕方私がウチの前を掃除しているとあの大和町の細い路地を昭三郎兄が入ってきて朝日湯を過ぎ長塚さんと長瀬さんちの前あたりからスラッとした長身に学生服を着てセントソフィアの徽章を着けた上智大の角帽を被って「オッ!周や、ただいま!」とニコニコしながらウチへ入っていったのをつい昨日のように覚えている。

大和町の借家は二軒長屋で雨漏りのする家で大家さんは築地町の河野さんという車引きで河達さんといった。家賃を払いに行ったことがある。きっと約束の日に払えなくておふくろが私に持たせたものだと思う。行くと玄関先に人力車が置いてあり旦那が出てきてお金を受け取ってくれた。そのときの情景がありありと浮かんでくる。

この体験が後年私にとって大事なことを学んだと思う。それはお金儲けというのは零細の人達から集めるものだということ、逆に言うと金持ちは金儲けをさせてくれない、ということだ。おそらく河達さんは倹約して家作を買いその家を零細の人に貸して家賃収入として上げて生活してゆく。これは昔も今も変わらない。自分が零細の身であったから世の中をそういう目で見てしまうのかもしれない。今テレビでラーメン店の繁盛振りを映しているが安くて美味しいものを提供して庶民の懐を狙っているとしか思えない。お金儲けの鉄則である。

大和町の思い出はまだまだ尽きないがこのへんで終わりとする。

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11.趣味 その1 魚釣り

私にとって二人お師匠さんがいる。一人は神立の民謡の先生湯原さんである。
私どもが上尾から神立へ転居したとき一軒おいてお隣りだったのと子供同士が同級生だったのでなにかとお世話になりおちかずきになった。

最初は近くの鶴沼でフナ釣りに興じた。そのうちに栃木県逆川へヤマベ釣りに誘われた。前の日に仕掛けを教わりそのとき竹ビクを頂いた。そのビクに竹笹をしいて釣った魚を入れると魚が痛まないとか、教えられることばかりだった。

朝暗いうちに起きて湯原さんの車に積み込んで栃木県へ向かって出発する。逆川近くになって入漁券を買っていただく。着くとバカ長を履いて川へ入る。静寂、せせらぎの音、こんな世界があったのか、おどろきだった。渓流釣りにはまっていったのも無理からぬことと思われる。あの岩盤の中へウキがピッピッピッーと吸い込まれて上げると良型のヤマベが上がってくる。

それは今までのフナ釣りにない楽しみだった。親同士、子供同士で渓流釣りを一日中楽しんだ。そのあと出島でのヒガイ釣り、北茨城での稚アユ釣り、波崎での海釣りなどいろいろなところへ連れて行ってもらった。湯原さんと釣りに同行して学んだことは人間は如何に気配りが大事であるかということ。出島へ行ったときのことである。

夕方釣り終わって食事していきましょうということになり民謡のお弟子さんがやってる〇〇園で焼きお握りを食べようとお座敷へ通された。

奥さんたちはすぐにあがった。その日は家族ぐるみのお付き合いで奥さん同士一緒だった。私は魚をいじったので手が臭くてどうしようかなと思っていたところへ湯原さんがバケツへ水を一杯にして石鹸とタオルを持ってきて「さあ、どうぞ」と言われた。

そして上へ上がると料理の注文、飲み物の注文、笑いを交えての食事。ことほど左様に気の付くお人、気の利くお人である。一事が万事ですべてに教えられることばかりであった。

波崎町へ海釣りに行ったときなど夜遅く帰宅したにもかかわらずその晩のうちに釣り上げた魚を三枚におろしてもってきてくれた。まったく頭が下がる思いだった。

釣りの師匠もさることながら人生の師匠でもあった。

その湯原さんに私は子供二人の結婚式の大役をお願いした。披露宴での新郎新婦が入場する際「長持唄」を唄って頂いたのと宴の〆にそれぞれの地方の民謡を唄って頂いた。因みに真希のときは「黒田節」と「磯節」、泰宏のときは「木更津甚句」と「磯節」で皆さんから喝采をうけた。正にそのノドと三味線の音色は絶品だった。

もう一人の釣りの師匠で人生の師匠は友人の黒澤近さんである。黒澤さんとのお付き合いぶりはパートTに書いたので重複の無いようにするが二人で北茨城へ民宿一泊で稚アユ釣りに行ったときのことである。一日目、早朝から常磐高速道をぶっ飛ばして北茨城インターを降りて現場へ向かう。湯原さんに教えて頂いた地図を頼りに釣り場を転々とする。

稚アユ釣りはヤマベ釣りと似ていて釣果は一日一ソク(百匹)釣りといわれ黒澤さんは一ソクぐらい釣り上げた。私はその半分ぐらいだった。夕方ワクワクしながら民宿へ向かった。お風呂へ入って一杯やって海の幸をつつく。これまで何十度となく親友の黒澤さんと釣行に出たが泊りがけの釣りは初めてである。楽しかったなぁ。

夕食のとき明日の予定を話し朝食は無しで代わりにおにぎりを枕元にとお願いし精算してグッスリ寝た。翌朝暗いうちに宿を出た。現場は近いのですぐに竿をおろした。ところが釣れないのであちこち移動した。どうもおかしい。気が乗らないのである。

午前十時ごろ「もう帰ろうや」と昼過ぎに黒澤さん宅へ戻ってきた。一日目は魚釣りのあと夜は一杯飲めると楽しみだったがそれをクリヤすると二日目はダラけてしまって釣りに集中出来ず早めに切り上げたというわけである。つまり魚釣りとは当日の夜中か朝暗いうちに出かけて夕方まで目一杯やって帰ってくるのが本来の釣りだろうと思う。

もう一つの釣りは釣竿を使わずにシノで釣る魚釣りである。私共が上尾から神立へ越して来てお隣りの鈴木さんと家族ぐるみお付き合いさせていただき奥さんの実家山方町へ一泊で行ったときのことである。

朝目が覚めると奥さんのお兄さんがこれから久慈川へヤマベ釣に行きましょうと言う。どうするのかなと思っていると裏山でシノを五・六本(1,5mぐらい)切ってきてその先端へ針と糸を付けただけである。ウキもなければオモリもない。どうやって釣るのかなと考えているうちに久慈川へ着く。

着くや否や裸足になってジャブジャブと浅瀬に入っていった。そして割りと大き目の石を見つけ裏返しにすると川虫が付いていてそのうちの一匹を針につけ前こごみになってシノを前後に動かすとピッピッピーッと良型のヤマベが釣り上がる。私も真似をしてやってみた。

面白いように釣れた。これにはワケがある。石の裏についていた川虫(餌にした以外の虫)が川の流れに沿って流されていく、それを食べに魚が集まってくる。だからシノの先の餌に食いついてくる。まことに理に適った釣法だと思った。

僅かな時間で二人で二十匹ぐらいになったところで上がった。桐原さん宅に戻り魚の腸をとって塩焼きにして朝食の膳にのせみんなで食べた。美味しかった。ここで学んだことは久慈川のヤマベ釣りは高価な釣竿は要らないということ、シノと糸と針で川虫で釣れる最も安価な釣ということだった。しかも最高の楽しみだった。

最後に釣果についてひとこと。
釣れない釣りも釣りの内、と言ってたときもあったがやっぱり釣りは釣れなきゃ面白くない。そこで餌のつけ方について考えてみる。今までのヤマベ釣りにはサシをチョンがけにするだけだったが小型鋏を用意してお尻をちょこんと切ったらもっと釣果が上がるんじゃないかと思う。

というのは竿を振り込んだときポチャンという聴覚とグニョグニョ動く視覚によるもの、その上に尻尾を切って匂いを出して臭覚を刺激すれば魚たちにとって寄ってくる。そこを釣り上げれば爆釣間違い無し、というのは如何?しかし残念ながら私は病気になってしまってためしたことはない。

ハゼ釣りの場合ゴカイ、アオイソメ、ジャリメを、フナ釣りの場合ミミズを、ヒガイ釣りの場合あかむしを、ヤマベ釣りの場合サシを、それぞれチョンがけにして尻尾を鋏で切って投げ入れる。そして短い竿を一本用意しておき尻尾切りした餌の落としたところへ少し時間をおいて竿を出す。これで好釣間違い無し。好釣といえば釣果において弟子は師匠を超えてはならないということ。これは鉄則である。超えると師匠はたちまち不機嫌になる。魚釣りとはそんなものである。

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12.趣味 その2 ごじゃっぺゴルフ

ごじゃっぺとは?
遠藤蛮太郎先生(俳誌「葵」主宰)著「茨城の方言」より
茨城方言「ごじゃっぺ」は釈迦の従兄弟ダイバが主唱した「五邪の法」という戒律が語源、釈迦が同意しなかった、つまり釈迦=道理に合わないことから出鱈目の意になる。とある。

つまり私のゴルフは出鱈目ゴルフなのである。ゴルフをやられた方ならお分かり頂けると思いますが私は100を切ったことがないのである。

私にとって記念すべき本コースでの第一打は出島CCであった。出島精機でミヤ精機の宮崎専務から頂いたクラブで多賀工場長に連れていってもらった。

第一打は見事に一・ニ塁間をゴロで抜くライト前のヒットだった。あとは無我夢中右へ左へ大忙し。よく戻ってこれたと思う。

ゴルフといえば忘れられない人はミヤ精機の宮崎専務である。本間の低重心アイアンセットとウッド3本それにバッグと靴まで贈って頂いた。あの時の嬉しかった気持ちは忘れようとしても忘れられない。持参して頂いた太田さん(専務の弟さん)にも感謝の念しきりである。

そのほかゴルフでお世話になった人は三人いる。まずは東邦建材の佐々木社長である。定年退職後に勤めた会社でこんなにゴルフをやれるとは思ってもいなかった。主に八郷町のセゴビアゴルフがメインのコースでそのほかつくばねゴルフや阿見ゴルフ、桜ゴルフなど県内近郊のゴルフ場いろんなところへ連れて行ってもらった。人間、老境というか死を目前にすると、見たものと食ったものしか残らない、と言うが正にその通りだと思う。

一緒にラウンドした人の顔やゴルフ場の景観レストランで食事したことなど鮮やかに蘇ってくる。感謝!感謝!たまに夢を見ることがある。そんなとききまって自分は健常者でプレイしているのである。

二人目は友人の雨谷実さんである。土浦駅前商店街の若旦那たちで結成している桜南ゴルフ会に加入させてもらったのも雨谷さんの尽力のお蔭である。そもそも桜南ゴルフ会は市議の折本さんの後援会がスタートと聞いていた。年六回のゴルフコンペ、数年前に100回記念のコンペを開いて盛会だったと聞く。もうかれこれ20年以上も続いている息の長い会である。

ゴルフが終わってからの宴会がこれまた楽しかった。異業種の人たちとイッパイやるのはいろんな情報が得られ有益だった。スコアは相変わらずでいつも100たたき以上、いつだったかブービー賞をとりそのときの優勝者と二人で次回の会場設定と宴会接待の幹事役となりプレーは土浦小同級生の立川秀夫さんが営業部長をしているつくばねゴルフでお世話になり宴会は土浦駅前通りの魚長本店でやったことがあったっけ。

三人目は市川・京葉企業の鈴木行正社長である。行正さんとは従兄弟で弟さんの洋三さんや勝利さんも一緒にプレーし楽しかった。主に県北の久慈川に近い那珂のゴルフ場でプレーを楽しんだ後水戸の叔母さんの家(鈴木功さん宅)で麻雀をやるのも楽しみのひとつだった。仕事を離れて従兄弟同士が雀卓を囲んで遊ぶのはこの上ないひとときだった。それにいつ行ってもビールとお寿司で歓待して頂き嬉しかった。

そのほか行正さんには千葉県のゴルフ場を案内してもらった。時にはプレー費を半分出して頂いたり昼食時レストランでの食事代などいつもご馳走になりいつもお世話になるばかりであった。今こうしてこのような病気になりご恩返しができないことを後悔している。

そのほか楽しいゴルフの集まりが二つある。一つは高校時代の友人の集まりである。酒井克巳さん、飯田哲ちゃん、中島章男さん、岡田猛ちゃん、それに私とみんな気まぐれ会のメンバーでこの会の良いところは気の措けない友人同士で何を言っても怒られない怒らない楽しい会だった。高校時代の友人は何にもまして得がたいと思う。ゴルフが終わって黒澤近さんと前澤斎爾さんが加わって七人の気まぐれ会となる。会費一万円の会計報告無しという会で永く続いている。

もうひとつは女房の妹夫妻の菊池実さん・宏子さん、それに妹の旦那岩男さんと私四人で菊池さんの別荘(伊東市)から稲取ゴルフ場へよく行ったもんだ。別荘へ親夫婦・三姉妹夫婦揃っての特にゴルフのあとの夕食は美味しかったし楽しかった。伊豆の別荘で宿泊費はかからず温泉につかり美味しい食事を頂けるなんて最高の贅沢だった。菊池さん夫妻に感謝!ゴルフの腕前は相変わらず100たたき以上。どうして止まっている球が打てないんだろうか?野球のピッチャーの投げる動く球を打つほうがよっぽど難しいと思っていたが大間違いだった。ゴルフは野球より難しい。実感である。なんとしても私のはごじゃっぺゴルフだった。

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のこしがき

いつの間にやら 21世紀 明日がある 明日がある 明日があるさァ

と健常者が陽気に大勢で唄っている。
が私(障害者)にはこの唄がつらく聞こえる。というのも私に明日があるかどうか分からないからである。人工呼吸器を装着して約二年になる。

その間呼吸器ジョイントパイプが外れた事故が二回あった。二回とも真夜中におきた。一度目は倅に、二度目は倅の嫁さんに助けられた。

いずれもパイプが外れて警笛(ブザー)が鳴りそれに気付いて隣室から駆けつけてくれた。私はというに危険を知らせる声も出ず両腕は筋力が無くパイプを取り付けることが出来ない。両足もいくらバタバタしても全然動かない。半植物人間である。どんなことをしても駄目だ。あきらめた。死ぬということはこういうことか。だんだん息苦しくなってきた。そこへ現れてくれたのである。助かった。だから私には 明日が無いのさぁ である。

普通ならこの欄は「あとがき」とするべきであるがあえて「のこしがき」とした。「のこしがき」すなわち「遺書」である。いつどうなるか判らない。いつどうなっても良いように書き残そうと思ったのである。

このパートUを書きはじめてまもなく2001年9月アメリカで同時多発テロ事件が発生しそのあと古今亭志ん朝と江戸家猫八の訃報が相次いだ。2002年のはじめには海老一染太郎の死、鈴木宗男、加藤紘一両氏の自民党離党などさまざまなことがおきた。

つらつら考えるに何の因果でこんな病気になったのかと思う。今時の現代医療科学をもってしても原因不明というこの病気ALS(筋萎縮性側索硬化症)の治療法は無いという。従って現在治療薬は投与されていない。

治療薬というより延命薬ともいうべきヨーロッパで開発されたリルテックという薬を平成11年4月から13年2月まで服用したが肝機能が悪化したため服用を禁じられ現在に至っている。おかげでr−GTPは600台から140にまで減少した。しかし治療薬の無いことには変わりない。

考えてみるとこれは医師がガン患者に対する死亡宣告と同じだと思った。その医師は私と家族を前にしてやりのこしたことをやりなさいと言われた。それが「下駄のあしあと」パートTであり、これがパートUである。

パートTのときは大学ノートにあらかじめ原稿を書きそれをワープロで打ってなんとかまとめたがパートUはそうはいかなかった。両手両腕の筋力か無くなりワープロが打てなくなった。

そこでどうすればよいか?我孫子市役所から供与されたパソコンを使うことにした。パソコンではスイッチングでひらがな入力しそれを漢字変換して文章にまとめていくわけである。

パートUを書き始めた頃は興味もあって一日に十数行も入力したこともあるが最近は手の劣化が進み数行も書くと疲労からか思うように進まない。

恐らくこれが最後の執筆になるだろうと思う。

土浦を出てくるときはカッコよくマッカーサー元帥気取りで「病兵は死なずただ消え去るのみ」と我孫子へ越してきた。

我孫子市は土浦市とは福祉の面でだいぶ開きがあり我孫子市へ越して来てつくづく良かったと思っている。

毎日、365日のヘルパーさんの介護、月2、3回の巡回医師の回診看護、それに入浴の際の板製のスロープ製作、そして公団の車椅子ごと乗れる昇降装置、などなどどれひとつをとっても土浦では出来なかったと思う。

介護保険要介護度5であることも一因だったとも思う。もう書けない。パソコンのスイッチングが思うようにいかない。ここいらが限界だと思う。これまで長文をよく入力してきたと思う。自画自賛という言葉があるが自分を誉めてやりたいと思っている。

ふりかえってパートT、パートUでまだまだ書き残したことがある。

たとえば土浦・下高津の野球チーム桜南ジャイアンツのこととか、因みにメンバーはP.菊池輝さん C.林栄造さん(練習時のみ)公式試合は多久さん 1st岩崎さん 2nd宮本昭三郎(私の兄)
3rd菊池秀雄さん(正喜屋長男)
s.s菊池幸雄さん(正喜屋次男)
外野,加藤さん 小松さん 妹川さん

圧巻は練習だった。林さんが打撃練習のとき一本足で打席に入る。フラミンゴ打法である。林さんは小さいとき右足を悪くして松葉杖をつく障害者だった。しかしファイトは普通の人以上だった。

打席に入ると私がホームベースの向こう側に立って林さんが打つと私が一塁ベースへ駆け込むのである。こんな練習見たこと無い。でも楽しかったなあ。終わると正喜屋さんの離れに住む多久監督(小樽高専出)夫妻のところへ集まりご馳走になってかえる。みんなから昭や、周やと可愛がられた。

野球の話が出たのでもうひとつ。私が鈴屋の番頭をしていたとき黒門銀星Bチームの一員として出場し上野公園グランドでリリーフピッチャーで投げたことがある。結果は散々で三連打を浴びて早々に降板した。野次られた。相手は佐竹チームだったと思う。でも元東映フライヤーズの土橋投手と同じマウンドに上がれたことは嬉しかった。

鈴屋の叔父さんの何回忌かの法要が谷中・瑞倫寺でおこなわれそのあと池之端・東天紅で会食があり終わって私一人だけ西黒門町の旧店舗あとを散策したことがある。店は前どおりであったが今輔さんの家が芸能事務所風に変わり昔の面影がなかった。お隣の藤田マークさんは昔どおりだったがその先隣の桂文楽さんの家跡がサラ地になっていたのには驚いた。時の流れというか世の無常をしみじみと感じて土浦へ帰ってきた。

これまでをふりかえってまだまだ書き残したものがあります。いろんなことが走馬灯のようにぐるぐるまわっている。総じて私の一生は、子供時代は戦前・戦中・戦後であってモノの無い貧窮時代だったが幸い親戚・知人・隣人たちのご援助によって何とか生きてこられた。

そして終戦後(小学6年の時終戦)6年目にして高校を卒業、と同時に東京へ出て就職以来6度の転職をして今日に至っている。その間結婚・育児・定年とやってきたわけだが考えてみれば良き時代に生き抜いてこられたと思う。実力以上の世の中を渡ってきたような気がする。そうだ!世の中が良かったんだよ。高度成長期とやらで安い給料であってもそれほど困窮生活を感じないでこれた。でもこれからはそうはいかないだろう。

のこしがきともなるとあれを残そうかどうしようかと迷う。へえ?そんなことがあったの?と数人しか知らないことを残すのは私の役割と心得てあえて起承転結にこだわらず書こうと思う。

私が鈴屋の番頭をしていた昭和30年頃である。元立教大・野球部監督砂押邦信さんへ[鈴風号軽快車]を1台お送りしたことがある。というのは鈴屋の次男尚正さんが立教大の学生で、立教大野球部マネージャーの関谷さん(水戸商業出)と学友だったからである。

その年砂押さんは監督を退任されて日立市の実家へ戻られたところだった。そこで野球部員全員の餞別として記念品に自転車を贈ろうということでマネージャーの関谷さんが友人の尚正さんに話をされてウチへきたというわけ。あの頃は自転車が重用された時代でまだまだ高価なモノだった。

砂押さんといえば今をときめく長嶋茂雄さんを月明かりのスパルタノックで育てた人である。この話はかなり有名である。やはり砂押さんが長嶋選手の天性を見出したからであろう。これがご縁で関谷さんのおかげで鈴屋の叔父さんは神宮球場のネット裏が顔パスとなり何回か神宮へ連れて行ってもらった。オーダー頂いた「鈴風号軽快車」は同僚の杉田さんが念入りに組み立て私とほかのもので厳重に梱包して王子運送便で発送したのをつい昨日のことのように思い出される。

最後に親孝行の真似事談を二つほど。

一つ目は昭和40年代前半の話である。おふくろが福次郎兄夫婦と山形へ行くというので「ようし、片道切符は任しときな」とばかり上野駅へ予約切符を買いに行った。窓口は長蛇の列だった。

隣の窓口はと見るにかなり空いている。見るとそこはグリーン車券売場だった。昼休みを利用して出てきたので午後1時までに会社へ戻らなければならず内心焦っていた。

家から預かってきたお金と自分の財布の中身を足せばなんとか買えるとあって買った。それを土浦へ送った。当日見送りもせず後日土浦へ行った時おふくろに旅行の様子をきいたところおふくろ曰く「いやぁー、ニ等車(グリーン車)へ乗せてもらってメンメンコンコンしちゃったよ、おみやげは売りにくるし、飲み物はいかがですか?お弁当はいかがですか?とまるでお大名だったよ」。

福次郎兄曰く「とにかく上野を出るとすぐに大宮で座席がリクライニングシートになってますよってんで少し後ろへ倒して外の景色を見ているうちに那須へ着き出ると白河・郡山・福島と過ぎてアッというまに米沢そして明るいうちに山形着、それも二等車なんて生まれて初めてだし夢みたいだったよ」。これを聞いてあぁ良かった!と思った。

自分も未だにグリーン車へ乗ったことが無い。そのグリーン車におふくろを乗せることが出来たんだと思うとちょっぴり満足げである。あくる日おふくろたちは山寺などを観光案内してもらってニ泊して帰浦した。おふくろにとっては最高の旅行だったようである。

二つ目は昭和40年代後半の話である。おふくろとウチの家族みんなで伊東・川良温泉へ行った。おふくろにとって川良に行くということは格別の楽しみがあった。それは館主(当時は川良別館)の山田勇吉さんと幼馴染で小学校も同級生だったとか。部屋へ案内されると山田さんがおふくろを訪ねて来て二人でながいこと昔話に花を咲かせていた。

ウチはまだ泰宏が生まれない時で真希と女房と私とおふくろとの四人家族旅行だった。
(「下駄のあしあと」パートT、九七頁参照)そこにおふくろと真希の写真が載っている。
楽しい家族旅行だった。ただ心残りだったのはおふくろにまっすぐ伊東へ行ってまっすぐどこへも寄らずに帰ってきたことである。途中熱海の観光地を案内してあげればと後悔した。
ところがおふくろは「なあに、伊東の川良へ行って山田さんと話が出来ただけで充分だよ」
と言ってくれたのでホッとした。

山形行、伊東行に共通して言えることはその時々で自分にとって目いっぱいのことをすれば良いんだなあということである。そうすれば悔いは残らない。
しかしそれもこれも時代(高度成長期)が良かったのかもしれない。

それから「下駄のあしあと」パートT一二一頁七行目柳田さんとあるのは、榊田さんの誤りでした。お詫び申し上げます。

いざ人間書き残すとなるとあれもこれもと思いを巡らすがキリが無い。この辺が限界だろうと思う。

最後にこの長い駄文をまとめてくださった(株)いなもと印刷のスタッフの皆さんに感謝の意を表して稿了とします。

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追記

まだテレビが世に出なかった頃のことである。或る雑誌社が都会に住む自殺(自死)者の足取り調査というのをやりその記事を読んだ記憶がある。

それによると自殺(自死)者の約半数は死ぬ前日とか二、三日前に寄席へ行って笑ってから死出の旅についたとあった。

戦中戦後のことゆえ寄席では多数名人たちの一席だったかもしれないし或いは浅草六区での金語楼劇団かシミキン一座か森川信一座かはたまた戦後は大宮デン助劇団かとにかく意を決した人は笑いを求めるのだろうか?笑いとは一体なんだろうか。笑いとは自分を一般の人よりも一段下におくということではないだろうか。

あの世界の喜劇王チャップリンのスクリーン姿はと見るに山高帽によれよれの燕尾服それにドタ靴といういでたち、日本の民謡では安来節の泥鰌すくいの演者ユーモラスな顔にホッカブリ尻をはしょって小脇にザルを抱え見るからに笑いを誘う容姿、どちらにも共通していることは演者は一般の人(お客さん)より一段ランクをさげて優越感をもたせて笑いをとろうとするのではないかと思う。

死を決めた人の胸中とはどんなものだろう。もうすぐすべてを清算する人にとって自分は他の人に較べて世の中の落伍者であると。寄席の高座で落語家の演じる与太郎話に共感を覚えたのではないだろうか。

そして現世の借金苦と人間関係苦を清算すべく今生の名残にと笑っていや笑われてこの世を去っていったにちがいない。この人達の気持ちが判るような気がしてきたのはつい最近である。

というのも平成十年六月ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病に罹り原因不明治療薬無しの状態で病状は除々に進行し一二年五月気管切開手術をし人工呼吸器を装着した。その時以来肉声を失った。喋れず食べられず寝たきりが丸二年続いたことになる。これからもこんな日がいつまで続くのだろうか。

半年ぐらい前から毎日かなり落ち込んで死ぬことばかり考えていた。そんなとき求めたのはやはり笑いだった。

毎週土曜日午後NHK3チャンネルでやる落語「日本の話芸」だった。段々にひきいられていく自分が判った。

一つの噺をじっくり三十分やるのはここしかない。毎週土曜日が楽しみだった。そのうちテレビでは満足出来ず上野・鈴本演芸場へ行きたくなった。どうやら私に死期が近づいてきたのか、そんな気がした。

しかし現実は寝たきりのため外出は出来ない。そこで思いついたのが落語家をウチへ招けないかということだった。このことはまだ具体化に至っていない。

余談だが二,三日前テレビで柳家小さんの訃報を伝えていた。見ると小さん師匠宅は豪邸である。ああ、これが現代落語を駄目にしたんだなと思った。

つまり落語家が裕福になってしまったからだった。私の持論は芸人(落語家)は貧乏でなければならないという考えである。貧乏でないと芸にひたむきさが出ないし輝きが出ない。

ところが時代が悪かった。誰もが食える時代になったからである。桂三木助などのようにマンション住まいで自殺(自死)してしまった人もいる。落語界の衰退がいわれて久しい。それもやむをえないか。

亡くなる者あれば生まれる者あり。我が家に二人目の孫(女の子)誕生。実に可愛い。

ここまで書いて自分の一生を振り返ったとき「下駄のあしあと」が適切と思う。これにて完結。

                                二〇〇二年  初夏    
 
                                     宮本 周
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